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赤坂の夜は更けて・・・

2月22日(水)晴れ

昭和34年フランク永井と松尾和子のデュエットでヒットした「東京ナイトクラブ」・・・

この昭和30年代は戦後約20年を経て「東京オリンピック」を開催(昭和39年)するなど、経済成長の足がかりを掴みながらようやく世界の仲間入りを果たした時代でもある。

また、同時に戦後最大となった労働争議の「三池闘争」そして「安保闘争」など資本家との闘い・体制との闘争が繰り広げられるなど、まだ混とんとした時代であった。

そんな30年代・・・振り返ってみれば一番昭和という時代を象徴している時代だったと言える・・・

ナイトクラブ全盛の時(33年にデビ夫人の働いていた“コパカバーナ”34年に“ニューラテンクォーター”35年に“花馬車”39年に“ゴールデン月世界”40年に“ミカド”の高級クラブが開店している・・・

これらの店には各国のVIP・政治家・財界人・プロレスラー・各界のトップスター(芸能人・スポーツ界他)・闇社会の人間などが出入りしていた・・

そのうちのひとつ“ニューラテンクォーター”に開店当初より勤務していた人物が書いた本を興味を持って読んでみた・・

「世界各国の超一流タレントが多く出演し豪華なショーを誇り日本一のナイトクラブとしてゴージャスな雰囲気、上品なムードのある社交場」として君臨し「一流の客・誇り高い従業員・日本一高い料金」をもって営業をしていた・・・


その著書は、「四大スター、一夜限りの“粋比べ”」という序章から始まっている・・・

一部を抜粋してみる・・・

「昭和三十六年の十一月末のこと、ふだんは午前二時・三時まで営業しているのをこの夜に限り十二時閉店としこれからお迎えする特別なお客様のために準備に入った・・・フロアは300人も入れる巨大なナイトクラブ、ステージも大きく海外の大物アーティストが何人も上がった舞台・・・そのフロアにウェイターを五人だけと、ホステスも百人の中から選び抜かれた十人で接客することに・・・」

「一時を過ぎたころだろうか、玄関先に立つポーターからお客様がお着きになった旨の知らせを聞いて、長い階段の下で副社長と著者である私がお迎えした・・・やがて四人の大スターが階段を下りてくるのを見てその何とも絵になること・・・その四人は三船敏郎さん(当時41才)勝新太郎さん(同30才)中村錦之介さん(同29才)石原裕次郎さん(同26才)戦後日本の誇る最大の映画スターが付き人なしに悠然と階段を下りてきた・・・席につきブランデーを頼む・・・三時半くらいまで宴は繰り広げられ空いたブランデーは十本近く・・お勘定は八十万円いただきました。(当時の大卒の初任給が一万円を少し越える時代の話である)・・・3人はかなり酔ったようだが、石原裕次郎さんだけが普段とまったく変わらない様子だった・・・」

その時代にこんなエピソードがあったのだ・・・

ニューラテンクォーターはホテルニュージャパン(悪名高い横井英樹氏の経営で、火災により死者33人の大惨事を起したホテルである)の地下にあり平成元年5月に閉店している・・・(現在は高層ビルとなり外資系のブルデンシャルタワーが建っている)

また昭和38年にプロレスラーの力道山がクラブのトイレから出てきたところを暴漢に刺され、その傷がもとで数日後に死亡したことでも知られる。


そんな庶民にとって縁遠い華やかな世界があった現場に立ち、昭和の臭いを感じてみようとその周辺を訪れてみた。




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